98年雪組凍てついた明日観賞中
2007年12月16日 宝塚 コメント (2) 舞台と言うのは劇場に足を運んで、客席から観るべきものだと思う。
だがしかし、家で録画したものを観るのは楽でいい。
田舎住まいで劇場が遠いから、という理由だけでなくて。
観賞しながら情報の取捨選択をしなくていいからだ。
特にオギーの舞台に限ってはその意味は大きい。
オギーの場合は取捨選択と言うより、情報の取りこぼしをしないように必死にならねばならんのですが。
オギーって舞台とか芝居とか役者の事はダイスキなんだろうけど、観客の事は特に好きでもなさそうだよね。
来る者は拒まず、去る者は追わず、ていうか。
オギーについて行ける観客だけを観客と数えてるって時々感じる。
そんなオギーの表現者としての姿勢は素敵だと思うし、私は彼が大好きだ。
不特定多数に受けるものを作らないのは商売として間違ってはいるが、クリエイターとして間違っていない。
若い頃は必死に彼の表現しようとするものを掴みとろうと客席で意識を全開にしていられた。
が、最近は、観客である私の方が老いてしまってて、オギーの舞台は客席で受信するのがけっこうしんどい。
舞台のあちこちで観るべき芝居が発信されている。
セリフをしゃべってるこっちの人にうっとりしてたら、あっちで大事な情報を芝居してたりする。
客は目を一対しか持っていないのに、舞台の上には観ておかねばならない情報がそれで足りないほど発信されている。
事によっては、オギーが役者に演出家として愛情を持っていた場合には、役者の過去の舞台履歴までも記憶の中から総動員する必要さえある。
まってまってまって、追いつけないよ。
て事が、多々ある。
ついて行けなくなって来たのは私の方で、オギーは変わってはいないんだけど。
客席で受信するにはオギーの舞台はしんどい。
また、発信されているものが重くて辛い感情である事が多いので、受信しきれたらそれはそれでしんどいしなー。
オギーって明るい未来に向かった希望いっぱいの生命賛歌みたいな作品作った事あったっけ?
記憶にないんですが。
「凍てついた明日」を久しぶりに観たくなって録画再生。
TV画面で観るのは楽でいい。
どこを観ようか悩まなくていい。
TV画面を観てればいい。
画面に映ってないどこかで、大事な芝居がなされているんじゃないかと、もったいない気はする。
が、話は通じてるから、いいよ。
TV画面で録画をみてたんじゃ、オギーの伝えたい事は掴みきれないだろうと思う。
それはもったいないと思う。
だけど、それでもいい。
舞台を観る事に大量のエネルギーを使う事のできた若い頃ならともかく、老いた今では私にはオギーの舞台を堪能する事はしんどくてたまらない。
だから、録画される事によって薄まったオギーでいい。
毒も薬も感動も薄まってしまって、オギーの値打が激減してたとしても、録画でいい。
だって、ナマ舞台は私には濃すぎて消化できないんだもん。
薄まった録画が、今の私にはちょうどいいんじゃなかろうか。
それでも、再生をはじめた途端に私をTVの前に釘付けにするだけの魅力はある。
久しぶりに「凍てついた明日」の録画を再生しながらそんな事を思ってます。
オギーのファンだと言うには、ちょっと酷い言い種だけども。
アレックスの上演も始まりましたねえ。
チケットは1枚だけ押さえてあるので、一度は観るけど、さて、一度観劇しただけで私にオギーの物語りが理解できるかどうか。
オギーにしてはわかりやすいと友人がメールをくれてるけど、何せ一度しか観る気がないからなあ。
で、凍てついた明日を観賞しながら、再演はどうなるんだろうかといぶかしむ私。
再演の主演は水エリザで、脱兎のごとくトートから逃げた生命力溢れるルドルフやった人ですよね。
オギーの芝居を生命力溢れた役者がやるのはどうかと思うけど、初演もそうだったんだから間違ってはいないのかも。
それにしても初演は良い役者そろってんなー。
わー。
これを再演すんのかー。
ワークショップの学年で、あの役やこの役できる人材がいる・・の・・・?????
オギーの事だから、どうにかするのかな。
するだろうな。
その時にならないとわかんないけど。
オギーの舞台をナマで観るのは本当にしんどいと思うけど。
チケットとれたら、多分観に行くんだろうなー。
だがしかし、家で録画したものを観るのは楽でいい。
田舎住まいで劇場が遠いから、という理由だけでなくて。
観賞しながら情報の取捨選択をしなくていいからだ。
特にオギーの舞台に限ってはその意味は大きい。
オギーの場合は取捨選択と言うより、情報の取りこぼしをしないように必死にならねばならんのですが。
オギーって舞台とか芝居とか役者の事はダイスキなんだろうけど、観客の事は特に好きでもなさそうだよね。
来る者は拒まず、去る者は追わず、ていうか。
オギーについて行ける観客だけを観客と数えてるって時々感じる。
そんなオギーの表現者としての姿勢は素敵だと思うし、私は彼が大好きだ。
不特定多数に受けるものを作らないのは商売として間違ってはいるが、クリエイターとして間違っていない。
若い頃は必死に彼の表現しようとするものを掴みとろうと客席で意識を全開にしていられた。
が、最近は、観客である私の方が老いてしまってて、オギーの舞台は客席で受信するのがけっこうしんどい。
舞台のあちこちで観るべき芝居が発信されている。
セリフをしゃべってるこっちの人にうっとりしてたら、あっちで大事な情報を芝居してたりする。
客は目を一対しか持っていないのに、舞台の上には観ておかねばならない情報がそれで足りないほど発信されている。
事によっては、オギーが役者に演出家として愛情を持っていた場合には、役者の過去の舞台履歴までも記憶の中から総動員する必要さえある。
まってまってまって、追いつけないよ。
て事が、多々ある。
ついて行けなくなって来たのは私の方で、オギーは変わってはいないんだけど。
客席で受信するにはオギーの舞台はしんどい。
また、発信されているものが重くて辛い感情である事が多いので、受信しきれたらそれはそれでしんどいしなー。
オギーって明るい未来に向かった希望いっぱいの生命賛歌みたいな作品作った事あったっけ?
記憶にないんですが。
「凍てついた明日」を久しぶりに観たくなって録画再生。
TV画面で観るのは楽でいい。
どこを観ようか悩まなくていい。
TV画面を観てればいい。
画面に映ってないどこかで、大事な芝居がなされているんじゃないかと、もったいない気はする。
が、話は通じてるから、いいよ。
TV画面で録画をみてたんじゃ、オギーの伝えたい事は掴みきれないだろうと思う。
それはもったいないと思う。
だけど、それでもいい。
舞台を観る事に大量のエネルギーを使う事のできた若い頃ならともかく、老いた今では私にはオギーの舞台を堪能する事はしんどくてたまらない。
だから、録画される事によって薄まったオギーでいい。
毒も薬も感動も薄まってしまって、オギーの値打が激減してたとしても、録画でいい。
だって、ナマ舞台は私には濃すぎて消化できないんだもん。
薄まった録画が、今の私にはちょうどいいんじゃなかろうか。
それでも、再生をはじめた途端に私をTVの前に釘付けにするだけの魅力はある。
久しぶりに「凍てついた明日」の録画を再生しながらそんな事を思ってます。
オギーのファンだと言うには、ちょっと酷い言い種だけども。
アレックスの上演も始まりましたねえ。
チケットは1枚だけ押さえてあるので、一度は観るけど、さて、一度観劇しただけで私にオギーの物語りが理解できるかどうか。
オギーにしてはわかりやすいと友人がメールをくれてるけど、何せ一度しか観る気がないからなあ。
で、凍てついた明日を観賞しながら、再演はどうなるんだろうかといぶかしむ私。
再演の主演は水エリザで、脱兎のごとくトートから逃げた生命力溢れるルドルフやった人ですよね。
オギーの芝居を生命力溢れた役者がやるのはどうかと思うけど、初演もそうだったんだから間違ってはいないのかも。
それにしても初演は良い役者そろってんなー。
わー。
これを再演すんのかー。
ワークショップの学年で、あの役やこの役できる人材がいる・・の・・・?????
オギーの事だから、どうにかするのかな。
するだろうな。
その時にならないとわかんないけど。
オギーの舞台をナマで観るのは本当にしんどいと思うけど。
チケットとれたら、多分観に行くんだろうなー。
コメント
やっと書き込めた と思ったのに
場所が違うぅ〜!!
ひとつ前の書き込みは こちらの分です。
ここのコメント、書き込んだら私しか消去できないもんですいませんよ〜〜
ドラ町さんで5回観劇でやっとなのか・・・。
私は今やってるネームが出来たら大阪泊増やそうかな、といつものように夢みてますが、きっといつものように予定通りにしか仕事が進まなず予定通りの観劇しかしない事でショウ。
ていうか、遠征日程増やしたとしてサバキ出てるかどうかが問題なわけですが。
1回観劇で消化できるかな〜〜〜かなり自信ないよ〜〜