最後にアレックスはロクサーヌに化身したニケを手に入れた。
私は幕が降りた時に
「オギーの芝居なのに最後に救いがあるなんて。」
と思ったのだが。
もしかしてあれは
「結局アレックスは自分と同じ人間とは愛しあいわかりあえる事がなかった」
と、否定的な終わりだったんだろうか。
解釈は観客にゆだねられたのか、それとも私が読み切れていないのか。
どっちだろう。
ずっと笑わないアレックス。
ずっと仏頂面のアレックス。
愛した人間の前では決して笑わないアレックス。
そんな始まりだから、ちょっと期待した。
物語り作りにおいては、最初と最後で主人公に何らかの変化が起きるのが基本だ。
これだけ最初から主人公が笑わない不幸な描かれ方をするなら、最後には幸せに笑う人間になると言うのが、まあ、一般的だ。
オギーが一般的な話の作り方をするかどうかと言えば、そうでもなかろうけど。
だから幕が降りた時に
「主人公は幸せになったんだ」
って思っちゃたんだけども。
神々の役者として、定められた運命を生きる事を厭ったアレックス。
ニケと言う神々に所属する存在に最後の安息と幸せを見つけた。
それは素直にアレックスが求めた幸せを得たと解釈していいものかどうか。
ずっと笑わないアレックス。
ずっと仏頂面のアレックス。
愛した人間の前では決して笑わないアレックス。
アレックスが満面の笑みを浮かべた相手は興味がない女。
敗国の王女。
政治的な意味合いで妻に迎えた女。
どうでもいい相手。
愛してる人間には笑顔を見せられないのに、興味のない女には笑顔を見せられる。
そんな痛々しい話。
友人から
「オギーにしてはわかりやすい」
と観劇前に教えてもらってたんだけど。
そういう言い方もあるけど、私は
「オギーにしては薄い」
って言いたいかな。
アレックスの孤独は描かれていて、それは直球。
母親オリンピアの孤独もディオの孤独も描かれているんだけど、どうも、過去のオギー作品に比べると絶望感がそれほどでもないと言うか。
幕の降りた後の叩きのめされた感がなかった。
それはありがたい事な筈なんだけど、全体に薄い気がするのであまり喜べない。
絶望感や飢餓感とかが薄い分、いつものオギーの描く世界の歪んだ美しさも薄いというか、無い気がした。
やけにセリフが多くて韻を踏んでたので
「シェイクスピアでもやりたいのか?」
と思ったんだけど、友人は
「あれはニナガワっぽい」
と言うてました。
別の友人は
「野田マップが近い」
と。
私はどっちも観た事がないわけじゃないんだが、どういう特徴だか思い出せる程には観てませんで。
そうなのかな?
宝塚らしくはない、って事なのかな?
オギーの描こうとする世界は宝塚が最良の場だと思う。
男ではない、男役と言う存在がある宝塚でこそ、オギーの世界は美しく描き切る事ができるんだと思う。
でも、オギーの世界は宝塚らしいものではないんだよな、と。
公式の粗筋に
「舞台は、ミュージカル『アレクサンダー大王の物語』のリハーサル風景として進められ」
とあったので、ごく一般的な劇中劇のある話かと思ったんだが、ちがってた。
冒頭で衣装がどうのこうの言ってる以外は、この設定存在してないよねえ?
神々の描いた歴史と言う物語の中を、神々の意図の通りに生きる人間達。
人はまるで神の意のままに動く役者のようだ。
その設定とミュージカルのリハーサルって設定が全くかみあってないというか、リハーサルって設定いらないんじゃないかとすら思うんだが。
この芝居に出る役者でオギーの創作意欲をかき立てる人っていないんだろうなあ。
どうも、矢代さん以外
「オギーの役者」
って感じのする人が誰もいない。
アテナはやたらしゃべってたし出番も衣装も多かったけど、謎だった。
オギーの世界にあっているようには見えないし、物語り上必要なわけでもないし。
怒濤の説明セリフは、確かにあった方がわかりいいのかもしれないが、なくても良かった気もするし。
オギーのファンなんだけど、これは確かにオギーの作品なんだけど、これを観劇してオギーファンとして満足できるかと言えば、そうでもない。
わかりやすくて薄いオギーって言うのは、実は私は望んでいた。
だって通常のオギーの一度観劇では読みとけない複雑な物語りとか、飲み下すには濃すぎる濃度とかは私にはちょっと辛かったから。
でもじっさい、わかりやすくて薄いものを提示されると、
「・・これは私の望んだオギーじゃない」
って思ってしまうから我がままなものだ。
瀬奈さんがずっと仏頂面な役所なのもちと残念。
苦悩してる瀬奈さんもいいんだが。
全編通して感情の波がない役所だから、物足りない。
オギー作品に霧矢さんだから、実はちょっとドキドキ期待と不安が胸にあった。
オギーの愛憎劇を霧矢さんがやったら、どうなるか。
それはもう、どえらいねちこいねっとりしたもんになってしまうのではないか、と。
期待と不安があったんですが。
別にそうでもなかったですね。
ディオは神様だからなのかなあ。
アレックスを求めるならもっと、すがりついて押し倒す勢いで求めて欲しかったんだがなー。
そういう役じゃなかったようで、残念。
一度しか観劇してないので見落としがありそうな気がする。
けど、次ぎはスカステ放送された時に観るんでいいや。
私は幕が降りた時に
「オギーの芝居なのに最後に救いがあるなんて。」
と思ったのだが。
もしかしてあれは
「結局アレックスは自分と同じ人間とは愛しあいわかりあえる事がなかった」
と、否定的な終わりだったんだろうか。
解釈は観客にゆだねられたのか、それとも私が読み切れていないのか。
どっちだろう。
ずっと笑わないアレックス。
ずっと仏頂面のアレックス。
愛した人間の前では決して笑わないアレックス。
そんな始まりだから、ちょっと期待した。
物語り作りにおいては、最初と最後で主人公に何らかの変化が起きるのが基本だ。
これだけ最初から主人公が笑わない不幸な描かれ方をするなら、最後には幸せに笑う人間になると言うのが、まあ、一般的だ。
オギーが一般的な話の作り方をするかどうかと言えば、そうでもなかろうけど。
だから幕が降りた時に
「主人公は幸せになったんだ」
って思っちゃたんだけども。
神々の役者として、定められた運命を生きる事を厭ったアレックス。
ニケと言う神々に所属する存在に最後の安息と幸せを見つけた。
それは素直にアレックスが求めた幸せを得たと解釈していいものかどうか。
ずっと笑わないアレックス。
ずっと仏頂面のアレックス。
愛した人間の前では決して笑わないアレックス。
アレックスが満面の笑みを浮かべた相手は興味がない女。
敗国の王女。
政治的な意味合いで妻に迎えた女。
どうでもいい相手。
愛してる人間には笑顔を見せられないのに、興味のない女には笑顔を見せられる。
そんな痛々しい話。
友人から
「オギーにしてはわかりやすい」
と観劇前に教えてもらってたんだけど。
そういう言い方もあるけど、私は
「オギーにしては薄い」
って言いたいかな。
アレックスの孤独は描かれていて、それは直球。
母親オリンピアの孤独もディオの孤独も描かれているんだけど、どうも、過去のオギー作品に比べると絶望感がそれほどでもないと言うか。
幕の降りた後の叩きのめされた感がなかった。
それはありがたい事な筈なんだけど、全体に薄い気がするのであまり喜べない。
絶望感や飢餓感とかが薄い分、いつものオギーの描く世界の歪んだ美しさも薄いというか、無い気がした。
やけにセリフが多くて韻を踏んでたので
「シェイクスピアでもやりたいのか?」
と思ったんだけど、友人は
「あれはニナガワっぽい」
と言うてました。
別の友人は
「野田マップが近い」
と。
私はどっちも観た事がないわけじゃないんだが、どういう特徴だか思い出せる程には観てませんで。
そうなのかな?
宝塚らしくはない、って事なのかな?
オギーの描こうとする世界は宝塚が最良の場だと思う。
男ではない、男役と言う存在がある宝塚でこそ、オギーの世界は美しく描き切る事ができるんだと思う。
でも、オギーの世界は宝塚らしいものではないんだよな、と。
公式の粗筋に
「舞台は、ミュージカル『アレクサンダー大王の物語』のリハーサル風景として進められ」
とあったので、ごく一般的な劇中劇のある話かと思ったんだが、ちがってた。
冒頭で衣装がどうのこうの言ってる以外は、この設定存在してないよねえ?
神々の描いた歴史と言う物語の中を、神々の意図の通りに生きる人間達。
人はまるで神の意のままに動く役者のようだ。
その設定とミュージカルのリハーサルって設定が全くかみあってないというか、リハーサルって設定いらないんじゃないかとすら思うんだが。
この芝居に出る役者でオギーの創作意欲をかき立てる人っていないんだろうなあ。
どうも、矢代さん以外
「オギーの役者」
って感じのする人が誰もいない。
アテナはやたらしゃべってたし出番も衣装も多かったけど、謎だった。
オギーの世界にあっているようには見えないし、物語り上必要なわけでもないし。
怒濤の説明セリフは、確かにあった方がわかりいいのかもしれないが、なくても良かった気もするし。
オギーのファンなんだけど、これは確かにオギーの作品なんだけど、これを観劇してオギーファンとして満足できるかと言えば、そうでもない。
わかりやすくて薄いオギーって言うのは、実は私は望んでいた。
だって通常のオギーの一度観劇では読みとけない複雑な物語りとか、飲み下すには濃すぎる濃度とかは私にはちょっと辛かったから。
でもじっさい、わかりやすくて薄いものを提示されると、
「・・これは私の望んだオギーじゃない」
って思ってしまうから我がままなものだ。
瀬奈さんがずっと仏頂面な役所なのもちと残念。
苦悩してる瀬奈さんもいいんだが。
全編通して感情の波がない役所だから、物足りない。
オギー作品に霧矢さんだから、実はちょっとドキドキ期待と不安が胸にあった。
オギーの愛憎劇を霧矢さんがやったら、どうなるか。
それはもう、どえらいねちこいねっとりしたもんになってしまうのではないか、と。
期待と不安があったんですが。
別にそうでもなかったですね。
ディオは神様だからなのかなあ。
アレックスを求めるならもっと、すがりついて押し倒す勢いで求めて欲しかったんだがなー。
そういう役じゃなかったようで、残念。
一度しか観劇してないので見落としがありそうな気がする。
けど、次ぎはスカステ放送された時に観るんでいいや。
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