再演「凍てついた明日」を観て来ました。 宝塚の話。
2008年6月1日 宝塚 良かった。
面白かった。
凰稀さんを初めてかっこいい素敵と思いました。
(ていうか、覚えてなかったのよ・・・。
本当に人の顔と名前が覚えられないのよ・・・)
ただ、何しろオギー作品なので、良作であればあるほど、観ててしんどいので一度観劇でいいとは思ってしまったけど。
再演だけど、初演とは別物になってました。
ちゃんと同じプロットで同じストーリー展開で同じセリフ使ってるんだけど、役の比重とかキャラクターが違ってる。
キャラクターが違うのは役者が変わってるからってだけではないと思う。
いや、ジェレミーと言うキャラクターが違っているのは、オギーの求めるジェレミーを演じきれる役者がいなかったからなのかと考えると、役者が変わったせいなんだろうけど。
初演にいたジェレミーは再演にはいません。
再演にもちゃんとジェレミーはいるんだけど、同じセリフをしゃべってるんだけど、初演にいたジェレミーはいません。
クライドを愛して、クライドの側にいた少年はいません。
クライドを愛した女はクライドの元から去っていく。
クライドの側にいる女はクライドを愛していない。
その人間関係の中で、たった一人、クライドを愛し続けクライドの側にいつづけた少年ジェレミー。
クライドには、クライドが気付きさえすれば、彼を愛し続けて全てを捨てて側にいつづけてくれた人がいたんだよ。
それがジェレミー。
そのジェレミーがクライドではない人間を選択した時にクライドの人生は終わった。
再演のジェレミーはその他大勢の一人になってしまっていて、初演時ほどクライドの孤独を悲しいものにするほどの存在ではなくなっていました。
残念。
再演と言えば再演なんだけど、初演を観た感動を求めて行くと違うものがそこにあります。
出来不出来で言えば初演の方がはるかに素晴らしい。
私は初演はナマ観劇じゃなくて、ビデオ買ったんですけども。
ビデオで観た初演と、ナマで観た再演を比べても、初演の方が完成度は高い。
それでも、この再演は良かった。
面白かった。
この再演でクライドはずっと笑っています。
その笑顔がいつも痛々しい。
クライドは楽しくて笑ってるんじゃない。
嬉しくて笑ってるんじゃない。
いつも、何かを誤魔化すように、その場をしのぐためだけに、笑ってる。
偽りの笑顔だとしか思えない。
いつもいつも笑顔で、それがツラの皮一枚だけのものだと観ててわかってしまう。
それが痛々しい。
オギーの作品だ。
いつものように、愛されたいと願うばかりで愛する事を知らない人間がそこにいる。
どう生きていいのかわからないのに、生きている人間がそこにいる。
クライドは笑って生きていける人生を本当は願っていたんじゃないだろうか。
だけど人生は彼にとって過酷で、彼の内から笑顔は発生しない。
だから彼は、せめて表面だけ、ツラの皮だけで笑ってるんじゃないだろうか。
いつも笑顔の男。
いつも苦い笑顔の男。
その痛々しさが観てて辛い。
だが、その痛々しさが美しくて目が離せない。
「アレックス」で主人公がずっと仏頂面だったのに共通するものを感じます。
最後に見せてくれた笑顔だけはきっと本物。
だけどそれは、生きている喜びを感じた笑顔ではない。
辛い人生が終わる事への喜びの笑顔だと思えた。
彼の偽りの笑顔が痛々しくて、最後にみせてくれた笑顔があまりに美しくて痛々しい。
美しい痛々しい、観てて辛い物語。
ジェレミーの存在が初演と違うものになっていたぶん、幼馴染みのテッドの存在が大きな意味を持ってたように思います。
再演では、クライドをずっと思っていたのはテッドになってる。
いや、初演からテッドはクライドを案じてはいたんだけれども。
再演ではテッドのクライドへの心情の描き方が大きくなっていたから。
初演ジェレミーほどではないけど、再演テッドはクライドの救いになりえる立場にいたと思う。
クライドが、幼馴染みのテッドに救いを求めることができたなら、クライドには違う人生があったのかな、と。
もちろんクライドにはそんな事はできっこないんだけれど。
まっとうに生きている、それでいてクライドを案じている人間テッド。
彼も初演とは役の比重がかなり違ってる。
何より違うと感じたのはボニーですが。
私は初演をビデオで観て
「主人公として描かれているのはクライド。
けれど作品のテーマを表現しているのはボニー。
本当に愛した人間を求め続けながら得る事のできなかった二人の物語。」
と思ってました。
再演は主人公も作品テーマを表現してるのもクライド。
通常話作りにおいては、主人公が作品のテーマを語る存在だから、再演の方が基本の作り方だけど。
初演はボニーとクライドの比重が同じくらいだったと思うんだが、再演はクライドの方がはるかに重くなっていた。
でもこれは、もしかしてクライドの恋人の存在が薄くなったからかな、とも思う。
初演では
クライドを愛して女はクライドの元から去っていく女。
と
クライドの側にいて女はクライドを愛していない女。
がどちらも強く存在していた。
だが再演では前者の存在があまりにうすい。
だから、クライドの中で二人の女が拮抗してなくてはならないのに、そうはならないのだ。
ボニーの存在が薄くなってしまってるのは、相対するもう一人の女の存在が薄くなってしまったのにひきずられたのかな、とも思う。
ボニーがそんなだから、クライドばかりが視界を独占してしまった。
お話とは別の点で、歌手がいなくなってたのが残念。
別にと言ってもいいのかな。
初演では歌がかなり良かった。
それが鳴りをひそめてしまっていた。
初演にくらべると歌が足りて無いので物足りない。
歌が足りて無いのも、初演の方が話も良かったと思えてしまう一因なのかも。
☆
観劇前に友人から
「バウの主演はエリザベートでルドルフをやった人よ。」
と教えてもらってました。
雪再演のルドルフと聞いて、実はあまり期待してなかったんですわ。
だって、雪再演のルドルフって、すごい生命力あふれた生きる気満々の青年だったじゃないですか。
エリザベートのルドルフをあれほど健康的に演じた人がオギー作品の主人公。
どんなもんかと思ってたんですが。
素敵だったよ。
びっくりだよ。
オギー作品の弱さ美しさは演じられる人なんですね。
かっこよかったです。
そして、己の個体識別の出来無さに泣く。
人から聞いてたからわかったけど、知らなかったら、私はクライドとルドルフを同じ役者さんが演じていたとは決してわからなかったと思う。
クライドをみながらも、ルドルフやった人だとは思えずにいたもん。
身体とか動きとか声とか(顔は最初から記憶にない)、ルドルフと全く違って見えたんだもん。
同じ人、なんですねえ・・・・。
面白かった。
凰稀さんを初めてかっこいい素敵と思いました。
(ていうか、覚えてなかったのよ・・・。
本当に人の顔と名前が覚えられないのよ・・・)
ただ、何しろオギー作品なので、良作であればあるほど、観ててしんどいので一度観劇でいいとは思ってしまったけど。
再演だけど、初演とは別物になってました。
ちゃんと同じプロットで同じストーリー展開で同じセリフ使ってるんだけど、役の比重とかキャラクターが違ってる。
キャラクターが違うのは役者が変わってるからってだけではないと思う。
いや、ジェレミーと言うキャラクターが違っているのは、オギーの求めるジェレミーを演じきれる役者がいなかったからなのかと考えると、役者が変わったせいなんだろうけど。
初演にいたジェレミーは再演にはいません。
再演にもちゃんとジェレミーはいるんだけど、同じセリフをしゃべってるんだけど、初演にいたジェレミーはいません。
クライドを愛して、クライドの側にいた少年はいません。
クライドを愛した女はクライドの元から去っていく。
クライドの側にいる女はクライドを愛していない。
その人間関係の中で、たった一人、クライドを愛し続けクライドの側にいつづけた少年ジェレミー。
クライドには、クライドが気付きさえすれば、彼を愛し続けて全てを捨てて側にいつづけてくれた人がいたんだよ。
それがジェレミー。
そのジェレミーがクライドではない人間を選択した時にクライドの人生は終わった。
再演のジェレミーはその他大勢の一人になってしまっていて、初演時ほどクライドの孤独を悲しいものにするほどの存在ではなくなっていました。
残念。
再演と言えば再演なんだけど、初演を観た感動を求めて行くと違うものがそこにあります。
出来不出来で言えば初演の方がはるかに素晴らしい。
私は初演はナマ観劇じゃなくて、ビデオ買ったんですけども。
ビデオで観た初演と、ナマで観た再演を比べても、初演の方が完成度は高い。
それでも、この再演は良かった。
面白かった。
この再演でクライドはずっと笑っています。
その笑顔がいつも痛々しい。
クライドは楽しくて笑ってるんじゃない。
嬉しくて笑ってるんじゃない。
いつも、何かを誤魔化すように、その場をしのぐためだけに、笑ってる。
偽りの笑顔だとしか思えない。
いつもいつも笑顔で、それがツラの皮一枚だけのものだと観ててわかってしまう。
それが痛々しい。
オギーの作品だ。
いつものように、愛されたいと願うばかりで愛する事を知らない人間がそこにいる。
どう生きていいのかわからないのに、生きている人間がそこにいる。
クライドは笑って生きていける人生を本当は願っていたんじゃないだろうか。
だけど人生は彼にとって過酷で、彼の内から笑顔は発生しない。
だから彼は、せめて表面だけ、ツラの皮だけで笑ってるんじゃないだろうか。
いつも笑顔の男。
いつも苦い笑顔の男。
その痛々しさが観てて辛い。
だが、その痛々しさが美しくて目が離せない。
「アレックス」で主人公がずっと仏頂面だったのに共通するものを感じます。
最後に見せてくれた笑顔だけはきっと本物。
だけどそれは、生きている喜びを感じた笑顔ではない。
辛い人生が終わる事への喜びの笑顔だと思えた。
彼の偽りの笑顔が痛々しくて、最後にみせてくれた笑顔があまりに美しくて痛々しい。
美しい痛々しい、観てて辛い物語。
ジェレミーの存在が初演と違うものになっていたぶん、幼馴染みのテッドの存在が大きな意味を持ってたように思います。
再演では、クライドをずっと思っていたのはテッドになってる。
いや、初演からテッドはクライドを案じてはいたんだけれども。
再演ではテッドのクライドへの心情の描き方が大きくなっていたから。
初演ジェレミーほどではないけど、再演テッドはクライドの救いになりえる立場にいたと思う。
クライドが、幼馴染みのテッドに救いを求めることができたなら、クライドには違う人生があったのかな、と。
もちろんクライドにはそんな事はできっこないんだけれど。
まっとうに生きている、それでいてクライドを案じている人間テッド。
彼も初演とは役の比重がかなり違ってる。
何より違うと感じたのはボニーですが。
私は初演をビデオで観て
「主人公として描かれているのはクライド。
けれど作品のテーマを表現しているのはボニー。
本当に愛した人間を求め続けながら得る事のできなかった二人の物語。」
と思ってました。
再演は主人公も作品テーマを表現してるのもクライド。
通常話作りにおいては、主人公が作品のテーマを語る存在だから、再演の方が基本の作り方だけど。
初演はボニーとクライドの比重が同じくらいだったと思うんだが、再演はクライドの方がはるかに重くなっていた。
でもこれは、もしかしてクライドの恋人の存在が薄くなったからかな、とも思う。
初演では
クライドを愛して女はクライドの元から去っていく女。
と
クライドの側にいて女はクライドを愛していない女。
がどちらも強く存在していた。
だが再演では前者の存在があまりにうすい。
だから、クライドの中で二人の女が拮抗してなくてはならないのに、そうはならないのだ。
ボニーの存在が薄くなってしまってるのは、相対するもう一人の女の存在が薄くなってしまったのにひきずられたのかな、とも思う。
ボニーがそんなだから、クライドばかりが視界を独占してしまった。
お話とは別の点で、歌手がいなくなってたのが残念。
別にと言ってもいいのかな。
初演では歌がかなり良かった。
それが鳴りをひそめてしまっていた。
初演にくらべると歌が足りて無いので物足りない。
歌が足りて無いのも、初演の方が話も良かったと思えてしまう一因なのかも。
☆
観劇前に友人から
「バウの主演はエリザベートでルドルフをやった人よ。」
と教えてもらってました。
雪再演のルドルフと聞いて、実はあまり期待してなかったんですわ。
だって、雪再演のルドルフって、すごい生命力あふれた生きる気満々の青年だったじゃないですか。
エリザベートのルドルフをあれほど健康的に演じた人がオギー作品の主人公。
どんなもんかと思ってたんですが。
素敵だったよ。
びっくりだよ。
オギー作品の弱さ美しさは演じられる人なんですね。
かっこよかったです。
そして、己の個体識別の出来無さに泣く。
人から聞いてたからわかったけど、知らなかったら、私はクライドとルドルフを同じ役者さんが演じていたとは決してわからなかったと思う。
クライドをみながらも、ルドルフやった人だとは思えずにいたもん。
身体とか動きとか声とか(顔は最初から記憶にない)、ルドルフと全く違って見えたんだもん。
同じ人、なんですねえ・・・・。
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