しんどかった。

 荻田浩一脚本演出ですから、予想はしてましたがしんどかった。
 辛かった。
 客席で疲労困憊。

 宝塚でなら華やかさと美しさでデコレーションされている荻田作品なのだけど、そうでないと私にはかなり辛いかも。

 美貌の人の肌を伝う一筋の血にが美しいと感じる人間は多いだろう。
 だが、生活に荒れ果てた人間の膿んだ傷口に人は美を感じるだろうか。

 傷は時に恐ろしく美しいけれども、膿んでしまった傷はどうだろうか。

 それでも、荻田浩一と言うだけで、私はチケットをとって劇場まで足を運んでしまうのだけど。
 金を払ってまで辛い目にあうのは私は本当に嫌な筈なのに、荻田浩一の作り出すものを観るためなら、それをしてしまいます。

 いったい私は、彼の紡ぐ辛いばかりの物語のどこにこんなにひかれるのか。



 主人公のモディは誰の事も愛していません。

 妻の事を愛していないのは客席で観ていてあきらか。

 絵描きのモディは絵の事しか頭にない。

 モディは絵描き仲間にせまります
「お前の見ているものがみたい」
 絵描き仲間はそれには答えず、モディの妻を描きたいと答える。

 モディは妻に君を描きたいと言う。
 妻は喜ぶ。

 客席からみてれば、モディが妻を愛していて妻を描こうとしてるのではないのがわかります。
 痛いよなー。


 芝居のオープニングはモディの死んだ直後からはじまって、話はモディの生きてた頃の回想。
 作中で妻はモディが死んだら後を追うとか台詞では言ってますが死ぬところまで描いていません。
 チラシには
「ジャンヌは、彼の死の翌朝、アパートの窓から身を投げ21歳で後を追った。」
 と明記されてますが。

 モディと妻の間には2歳にならない子供がいるらしいですが、芝居には出てきません。
 妻がモディの母親に預けてきたから。
 作中、母親が2歳にならない子供を預けるなんてと言われてますが、妻は気にしてません。
 妻は子供の事を愛していないのです。
 妻はモディから愛される事しか望んでないのです。

 そして、2歳にならない子供を愛していない妻は、さらに妊娠を告白します。
 
 現在生まれている子供すら愛せていないくせに、よりモディを自分のものにするために子供を作った妻。

 モディが死んだ時、妻は臨月間近でした。

  けれど、妻は、モディが死んだ翌朝に後追い自殺をしているのです。

  臨月で自殺。

 客席で感じるのは自殺してしまう妻の辛さではなくて、夫の関心を得るためだけに愛する事もできない子供を作る女の愚かさ。

 だって臨月よ。

 死にたいならせめて産んでから死ねばいいじゃないか。

 妻は愚かで無力であったけれど、赤ん坊たちはより無力なのに。


 みていて辛い、しんどい、疲れるお話でした。


 妻をやった女優さんと、モディの友人をやった女優さんがすごく良かった。
 元来上手い役者さんなのかな?
 当て書きではまってたのかな?
 
 友人役の女優さんが知的で色々わかってる感じなのがせつなかった。
 モディみたいなダメな男を愛しちゃった悲しみがせつなかった。
 

 ☆


 同日に傾く首を観る前に「CHICAGO」を観ました。
 
 傾く首を観る前に何か観劇できるのがないかなーと上演日時と場所だけで観劇を決定。

 こちらも、自分しか愛せない人間たちの話だったんだけど、こっちはしんどくなかったな。

 登場人物がみんな生命力があったから。

 同じ「自分しか愛せない我侭な人間」でも、生命力があれば観ていて辛くない。(他人を踏みにじる話になると、また別の辛さがあるけど)
 生命力がないと、観ててしんどい。

「CHICAGO」「傾く首」の順番で観たのは、単に観劇予定日に傾く首が夜一回しか公演が無かったからなんだけど、出来れば反対の順番で観たかったかも。
 そしたらまだマシだったかな。

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